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AI解説の合間に挟む、登場人物のプライベートに踏み込む短編。第7回は 御託(39)、シニアコンサル。世田谷の独身マンションに 防音処理を施したオーディオルーム を持つ男には、もうひとつの肩書きがある。「ベルリンフィルの定期会員」。といっても本人がベルリンに飛ぶわけではない。公式のライブ配信を、時差の壁を越えて土曜未明3時に 「生」 で聴く、それが彼の言う 「定期」 である。アンプを30分暖機し、椅子を1mm単位で詰め、ブルックナーへ正座で臨む。AIは1ミリも出てきません。

金曜23:00 — まず、暖機が始まる

深夜の世田谷の防音オーディオルーム、御託がスイートスポットの椅子に座り、正面の大型スピーカーと壁掛けスクリーンにオーケストラのライブ映像、アンプのメーターが暗闇に光る

御託は、金曜の23時に、帰宅した。

恵比寿の隠れ家ダイニングでクライアントとの会食を終え、ハイヤーではなくあえてタクシーで世田谷の自宅へ戻る。「移動の30分は、思考の整理に使う」というのが彼の持論である。実際に整理していたのは、明け方に始まる演奏会のプログラムのことだった。

マンションの一室、6畳ほどの空間に、彼は 防音処理 を入れている。壁は吸音パネル、床は浮き構造。隣室にも階下にも、ここから音は漏れない。逆に言えば、ここに入ると 世界の音が消える

部屋の主役は、ペアで300万円の B&W 802 D4。それを鳴らすのは Mark Levinson のセパレートアンプ。御託は帰宅して上着を脱ぐと、まず、アンプの電源を入れた。

演奏会の本番は、まだ4時間も先である。

電源投入から、本領を発揮するまで、最低でも30分はかかる

と、彼は誰にともなく、つぶやいた。

本当は30分どころか、彼は 前夜から温めておきたい。回路が、コンデンサが、彼の言う 「本来の音場」 に到達するまで、時間が要る。だから金曜の夜のうちに、火を入れる。明け方の一発勝負のために。

アンプの小さなメーターが、暗い部屋にぼんやりと灯った。御託は、満足げに、それを3秒眺めた。

金曜23:40 — 椅子を、1mm単位で詰める

御託には、もうひとつ儀式がある。

スイートスポット。2台のスピーカーから等距離に座り、左右の音が正三角形を描く、ただ一点。そこに椅子を置く。

彼は、椅子の脚を、床の マスキングテープの印 に合わせて、ミリ単位で調整した。先週、ケーブルを掃除した拍子に、椅子が 3cm ずれた。それに気づいたとき、彼は本気で15分悩んだ。

飲み物は、常温のミネラルウォーター

銘酒会で20本の純米吟醸に頭の中でスコアを付ける男が、ここでは一滴も飲まない。

アルコールは、聴覚の解像度を、確実に鈍らせる

これも持論である。日本酒は別の日に、別の儀式として、別の頭で味わう。今夜の御託は、素面の耳 でなければならなかった。

サブ機の STAX のヘッドホン を、念のため、椅子の脇に用意した。スピーカーで満足できなかった場合に、最後の手段として切り替えるためである。実際に切り替えたことは、ほとんどない。だが、用意することに意味がある、と本人は考えている。

土曜02:30 — アラーム、そして 「生」 への執着

御託は、いったん仮眠を取り、土曜の 2時30分 に、アラームで起きた。

今夜の配信は、ベルリン現地の金曜20時。日本時間に直すと、土曜の午前3時。公式のライブ配信サービスが、ベルリンの本拠地から、その瞬間の演奏をそのまま流す。

ここで、ひとつ、御託本人も薄々気づいている矛盾がある。

この演奏会は、後日、アーカイブでいつでも視聴できる。寝てから昼に観ても、同じ映像が、同じ音で、流れる。むしろ寝不足の耳より、昼の冴えた耳のほうが、解像度は高いはずである。

だが、御託は、それを認めない。

「いつでも観られる」 のと、「いま、まさに鳴っている」 のは、まったく違う

彼に言わせれば、これは 真正性 の問題だった。アーカイブは複製である。配信ごしであっても、地球の裏側でいま弓が弦に当たっている、その一回性 に立ち会うこと。そこにしか価値はない。哲学書の受け売りで言えば、人はみな「すでに投げ込まれた」状況を生きているのであって、後から巻き戻せる時間など本来は存在しない――

と、ここまで考えて、御託は、自分が午前2時45分の暗い6畳間で、誰に説明するでもなく被投性について独白していることに気づき、ミネラルウォーターをひと口飲んだ。

土曜02:55 — 始まる直前、スマホが、光る

本番5分前。御託は、椅子に深く腰掛け、ほぼ正座に近い姿勢で、画面を見つめていた。

壁掛けの大型スクリーンには、ベルリンのホールの様子が、まだ客席のざわめきとともに映っている。楽団員が、ひとり、またひとり、ステージに現れる。チューニングの、あの不揃いの音。御託は、この時間が、いちばん好きだった。

その瞬間、椅子の脇のスマートフォンが、ひかえめに、光った。

通知。

個人勢Vtuber 「星詠 ヨミ」 の、朝活配信 の開始予告だった。「土曜の朝は、哲学書の音読から」。御託が長く追っている、知的系の配信枠である。

御託の指が、3秒、止まった。

STAX のヘッドホンなら、推しの朝活を、これ以上ないクリアな音で聴ける。それも、捨てがたい。

だが、彼は、首を、横に振った。

今夜は、ベルリンだ

スマホを、伏せて、椅子の脇に置いた。推しの朝活は、アーカイブで聴けばいい

――アーカイブで聴けばいい。

御託は、その一言が、たった今の自分の 「真正性」 哲学と真っ向から矛盾していることに、気づかなかった。

土曜03:00 — 開演、指揮者が、タクトを上げる

午前3時、ぴったり。

場内の照明が落ち、指揮者が登場した。今夜のプログラムは、ブルックナーの交響曲第8番。全4楽章、休憩なしで、80分を超える大曲 である。

御託は、背筋を伸ばした。

第1楽章の、あの不穏な弦のトレモロが、6畳の防音室を満たした。B&W 802 D4 が、低弦の沈み込みを、空気ごと押し出す。Mark Levinson が、その低弦を、にじませず、輪郭を保ったまま鳴らす。

……来た

御託は、目を閉じた。

これだ。これのために、金曜の夜からアンプを温め、椅子を1mm単位で詰め、午前3時に正座しているのだ。クライアントの前で抽象論を振りかざし、川口に教育係マウントを取り、銘酒会でスコアを付ける、あの日々の自分とは、まったく別の人間が、ここにいる。

ここには、誰もいない。聴いているのは、彼ひとり。

誰にもマウントを取れない場所で、御託は、いちばん幸福だった。

土曜03:40 — 第3楽章、アダージョ、そして…

深夜のオーディオルーム、ブルックナーのアダージョが流れる中、椅子に座った御託の首がかくんと前に落ち、うとうとしている、膝の上にSTAXヘッドホン

第3楽章。アダージョ。

ブルックナーの第8番の、白眉とされる楽章である。ゆったりと、どこまでも美しく、25分かけて、ひとつの巨大な弧を描く。ハープが、入る。弦が、天上へ昇っていく。

午前3時40分。

防音室は、ほどよく暖まっている。椅子は、御託が10年かけて選び抜いた、最高にフィットする一脚である。アルコールは入っていないが、仮眠から起きてまだ1時間 の体に、25分のアダージョは、あまりにも、心地よかった。

御託の、まぶたが、重くなった。

……この、第2主題の、チェロの……

と、内心で解説を始めかけた、その途中で。

御託の首が、かくん、と、前に落ちた。

地球の裏側で、世界最高のオーケストラが、人類の到達した最も美しい音楽のひとつを奏でている、その 「一回性」 の真っ只中で。

御託は、静かに、寝た

土曜04:10 — フィナーレの大音量で、覚醒

第4楽章。フィナーレ。

ブルックナーの第8番は、終楽章で、全楽章の主題が、雷鳴のように 同時に重なって 帰ってくる。金管が咆哮し、ティンパニが連打され、ホール全体が震える。

B&W 802 D4 が、その総奏を、6畳の防音室で、忠実に再現した。

御託は、跳ね起きた

画面の中では、すでに曲が終わり、指揮者がタクトを下ろし、満場の 拍手 が、ホールを包んでいた。

御託は、3秒、状況を、把握しようとした。

第3楽章のアダージョの途中から、第4楽章のクライマックス直前まで。つまり、いちばんの聴きどころを、彼は、まるごと寝ていた

地球の裏側で、いま、まさに鳴っていた音。二度と巻き戻せない、その一回性。それに立ち会うために、金曜からアンプを温め、午前3時に正座した、その聴きどころを。

御託は、ミネラルウォーターを、ひと口、飲んだ。

そして、画面の右下の、アーカイブ視聴 のボタンに、そっと、指を伸ばした。

……まあ、復習も、大事だ

午前4時の世田谷で、真正性の哲学は、静かに、撤回された。

月曜、09:30 — オフィス、御託、語り出す

月曜朝のオフィス、御託が指揮者のように手を振りながらクラシック音楽を熱く語り、若い川口が几帳面な無表情で正確に応じ、横を通る大蔵が察しの半笑いを浮かべる

月曜の朝。御託は、出社するなり、川口を、つかまえた。

川口。土曜のな、ベルリンフィルのブルックナー、聴いたか

川口は、22歳のアナリストである。クラシックは、詳しくない。だが、几帳面で、頭の回転は速い。

あ、いえ……ぼくは観てないですけど。あれ、配信ですよね。御託さん、現地に行かれたわけじゃ……

「定期」 だよ。私はベルリンフィルの定期を、もう何年も続けている

御託は、片手を、指揮者のように、ゆっくりと振った。

土曜の第8番はな、第3楽章のアダージョが、白眉だった。あのチェロの第2主題が、空気ごと、天井へ昇っていくんだ。B&W でなければ、あの沈み込みは出ない

御託が 唯一、まるごと寝ていた のが、その第3楽章である。

川口は、3秒、考えてから、几帳面に、こう返した。

あの、それ、後からアーカイブでも観られますよね。Digital なんとかっていう、公式の。生で聴く必要、あるんですか

御託の、片手が、空中で、止まった。

……君には、まだ、早いかな

と、御託は、論点を、上位に、ずらした。

そのとき、横を、大蔵が、通りかかった。

大蔵は、御託の顔を、5秒、見た。土曜の演奏会で寝落ちした男に特有の、あの うっすらした目の充血 を、銀座カフェ仕込みの観察眼が、一瞬で捉えた。

御託さん。また、土曜のお目目が、お疲れのようですわね。……アダージョは、よく眠れるって、申しますものね

御託は、無言で、コーヒーを、口に運んだ。

川口は、その含みのある会話の意味が、まったく分からず、几帳面に首をかしげた。

その後 — 御託、こっそり、アダージョを復習する

その日の夜、御託は、自宅のオーディオルームで、土曜のブルックナーの アーカイブ を、開いた。

そして、自分が寝ていた 第3楽章のアダージョ を、頭から、聴き直した。

今度は、寝なかった。

たしかに、美しかった。チェロの第2主題は、本当に、空気ごと、天井へ昇っていった。御託が川口に語った内容は、結果として、ほぼ正しかった。

違っていたのは、彼がそれを土曜の午前3時には聴いていなかった、という、その一点だけである。

御託は、来月の定期のプログラムを、確認した。

マーラーの、第3番。全6楽章、100分

御託は、3秒、考えてから、来月は 仮眠を2時間に延ばす ことを、心に決めた。

それでも、彼は、来月も、午前3時に、正座で臨むだろう。

アーカイブで観ればいい、とは、決して、言わずに。

あとがき

本記事には、AI、Transformer、LLM、ロジット、softmax、生成AI、そういった単語は、一切、登場しません。

登場するのは、世田谷の防音オーディオルーム、暖機30分のアンプ、1mm単位の椅子、午前3時のブルックナー、寝落ちした白眉のアダージョ、月曜の自慢と大蔵の察し、それだけです。

御託は、ベルリンフィルを愛しています。これは、本当です。聴きどころで寝てしまうのも、また、本当です。両方とも、嘘ではありません。

次回のATOMは、フェーズ⑦の残り(残差接続 / サブワード / デコーダー ほか)に戻ります。