このページについて

AI解説の合間に挟む、登場人物のプライベートに踏み込む短編。第4回は 川口 光輝(22)月1の北海道乗り鉄遠征。今回は 札幌から特急『おおぞら』で根室本線を経由し、釧路まで4時間 の旅。普段は社内便利屋として 朝も夜も Slack で呼ばれ続けている 彼が、唯一その通知音から逃げ切れる 24時間。AIは1ミリも出てきません。

05:30 — 札幌駅、まだ薄暗い駅構内

夜明け前の札幌駅構内、川口がリュックを背負って駅名標を見上げ、薄い水色の空に駅舎のシルエットが浮かぶ

川口は、札幌駅の北口に、5時30分に着いていた。

前日の金曜夜、最終フライトで新千歳に降りて、駅前のビジネスホテルで4時間だけ寝た。

持ち物は、いつもと同じ。

川口は、駅の改札手前で、紙の時刻表を、もう一度、開いた。

『特急 おおぞら 3号、6時52分発、釧路行き』

札幌(06:52) → 新札幌(06:59) → 南千歳(07:23) → 追分(07:46) → トマム(09:08) → 新得(09:45) → 帯広(10:42) → 池田(11:02) → 浦幌(11:33) → 白糠(12:07) → 釧路(12:30)。

所要、4時間38分

川口は、3秒、その時刻表を、見つめた。

これを、何度も、暗記している。家にいる時、布団の中で、暗唱したこともある。

ただ、現地で、紙の時刻表 を開いて、確認する、この瞬間が、好きだった。

06:48 — 6番線、入線

『おおぞら 3号』は、定刻通り、入線してきた。

キハ261系1000番台。ステンレス車体に、コーポレートカラーの紫帯。

5両編成。1号車がグリーン車、2〜5号車が普通車。川口の指定席は、3号車12番A席、進行方向左側、海側だ。

川口は、入線したばかりの車両を、3秒、見つめた。

そして、ホームの端に行って、先頭車両を、スマホで撮った。

Instagram には、上げない。

ただ、撮った、というだけの記録。

これも、誰にも、見せない。

06:52 — 発車

『おおぞら 3号』が、静かに、動き出した。

川口は、3号車12番A席に、深く、座った。

窓の外、札幌の街が、ゆっくり、流れ始めた。

朝7時前の、新札幌の街。通勤前の、静かな空気。

川口は、リュックから、ICレコーダー を取り出した。

そして、録音開始 ボタンを押した。

キハ261系の、ディーゼルエンジンの低い唸り。

カーブで、車輪が、わずかに、軋む音。

これを、ずっと、録っていく。家に帰って、聞き直す。

誰にも、説明したことは、ない。

09:08 — トマム、雲海の入口

特急の窓側席で川口が車窓の北海道の山並みを見つめる、紙の時刻表が膝の上に開かれている

『おおぞら 3号』は、石勝線 のトマム駅に、停車した。

夏の北海道。山の上の方には、まだ、雪は、残っていない。

川口は、紙の時刻表 を、開いた。

トマム、09:08着、09:09発」。

1分停車。観光客の乗降は、ほぼ、なし。

川口は、3秒、駅名標 を見た。

そして、9時8分00秒、ぴったりに、停車したことを、iPhone の GPS で確認した。

誤差、0秒。

川口は、口の中で、つぶやいた。

JR北海道、完璧

誰にも聞こえない、小さな声で。

そして、3秒、車窓を見つめた。

遠くに、雲海の入口 が、見えていた。

09:30 — 狩勝峠、勾配最適化

『おおぞら 3号』は、新得 を出ると、すぐに、狩勝峠 の長い下り勾配 に入る。

川口の好きな区間。

キハ261系は、振り子式 ではないが、空気ばね 制御で、急カーブを、滑らかに、抜けていく。

連続する S字カーブ。

遠心力。

足元から、わずかな、傾き。

川口は、3秒、目を閉じた。

そして、心の中で、勾配を、計算した。

川口は、3秒、目を開けた。

そして、もう一度、車窓を、見た。

1966年の廃線跡 が、谷の向こうに、わずかに、見える、はずだ。

実際には、もう、木に覆われて、見えない。

でも、川口の頭の中には、見えていた。

これも、誰にも、説明していない。説明したら、引かれる、と分かっている。

10:42 — 帯広駅、5分停車

帯広駅は、5分停車。

多くの乗客が、ホームに降りて、伸びをした。

川口も、降りた。

ホームの売店で、「ぶた丼弁当」 を、買った。

880円。

これも、3ヶ月続いている “帯広駅では必ずぶた丼” の習慣。

SNS には、上げない。

3号車12番A席に、戻った。

包みを開けて、ぶた丼を、食べた。

窓の外、十勝平野 が、広がっていた。

遠くに、日高山脈 の影が、見えた。

ぶた丼は、いつも通り、美味しかった。

これですね

誰にも聞こえない、小さな声で。

12:30 — 釧路駅、到着

『おおぞら 3号』は、12時30分00秒、ぴったりに、釧路駅 1番線に、到着した。

誤差、0秒。

川口は、ホームに、降り立った。

釧路の空気は、東京 と、明らかに、違う。

湿度が、ある。湿原の匂い、と言えばいいか。

川口は、駅名標 を、3秒、見上げた。

くしろ KUSHIRO

釧路駅、4時間38分

口の中で、もう一度、つぶやいた。

達成感、というのとは、少し、違う。

これを成すために、4時間38分、ただ座って、車窓を見ていられた、という静かな満足。

これが、川口にとっての、唯一の、Slack を開かない時間だった。

14:45 — 釧路湿原、ノロッコ号

釧路駅で、「くしろ湿原ノロッコ号」 に乗り換えた。

こちらは、観光列車。客車3両、ディーゼル機関車牽引。

釧網本線 を、釧路湿原駅まで、ゆっくり、走る。

所要、約30分。

窓は、開いている。

北海道の風 が、車内に、流れ込んでくる。

川口は、ICレコーダー を、もう一度、回した。

ディーゼル機関車の音、客車のジョイント音、車掌のアナウンス。

窓の外、地平線 まで続く湿原。タンチョウ(と書かれた案内、実物は見えない、季節が違う)。

川口は、3秒、目を閉じた。

これだけのために、来ている

誰にも聞こえない、小さな声で。

20:30 — 帰路、『おおぞら 12号』、釧路発

夜の特急車内、川口が窓側席で iPhone を手にしながらSlackを開くか迷っている、車窓は暗い

夕食を、釧路駅構内 で、簡単に済ませた。

そして、『おおぞら 12号』20時30分発、札幌行き に乗った。

復路は、3号車14番A席。

同じ進行方向左側、海側。だが、夜なので、外は、ほとんど何も、見えない。

川口は、リュックから、『鉄道ピクトリアル』 を取り出した。

朝、読むつもりだった、未読のままの特集記事。

3ページ読んで、すぐ、置いた。

そして、iPhone を取り出した。

Slack を、開きそうになった。

月曜の業務、月次レビュー、AI 戦略推進室の TODO、御託先輩のレビュー待ち資料。

川口は、3秒、迷った。

そして、Slack を、閉じた。

代わりに、iPhone の GPS ロガー を、もう一度、起動した。

『おおぞら 12号』の、復路の、速度プロファイルを、記録するためだ。

これも、誰にも、見せない。

そして、3秒、目を閉じた。

キハ261系のディーゼルエンジン音が、車内に、低く、響いていた。

川口は、その音に、身体を、預けた。

月曜の朝、東京の会議室

月曜の朝、川口は、東京の会議室に、いた。

赤崎部長 が、3案の戦略レビュー資料を、目の前に置いて、こう言った。

うーん、川口くん、この案A、いいねぇ。案B もいいねぇ。案C も、ふわっとした方向感としては、いいねぇ

川口は、3秒、それを聞いた。

そして、ノートパソコンを、開いた。

背景の壁紙は、釧路駅の駅名標 の写真。

誰にも、気づかれていない。

川口は、軽く、口の端を、上げた。

赤崎部長、その3案ですけれど…

そして、いつもの “アナリスト” モードに、戻っていった。

でも、ノートパソコンの壁紙だけは、釧路駅 のままだった。

その日も、誰にも、気づかれなかった。

川口は、それで、十分だった。