AI解説の合間に挟む、登場人物のプライベートに踏み込む短編。第4回は 川口 光輝(22) の 月1の北海道乗り鉄遠征。今回は 札幌から特急『おおぞら』で根室本線を経由し、釧路まで4時間 の旅。普段は社内便利屋として 朝も夜も Slack で呼ばれ続けている 彼が、唯一その通知音から逃げ切れる 24時間。AIは1ミリも出てきません。
05:30 — 札幌駅、まだ薄暗い駅構内

川口は、札幌駅の北口に、5時30分に着いていた。
前日の金曜夜、最終フライトで新千歳に降りて、駅前のビジネスホテルで4時間だけ寝た。
持ち物は、いつもと同じ。
- カモフラージュ色のリュック(中身は乗り鉄装備一式)
- 『JR時刻表 2026年9月号』(紙の本、必ず紙)
- 北海道&東日本パス(普通車自由席乗り放題、…だが今回は特急券を別途購入する)
- ICレコーダー(車内の走行音録音用、誰にも見せない)
- iPhone(GPS で速度ロギング、これも誰にも見せない)
- 鉄道雑誌1冊(『鉄道ピクトリアル 2026年9月号 特集: JR北海道の特急車両』、移動中に読むつもりだったが、結局車窓を見て読まなかった、これも3ヶ月続いている)
川口は、駅の改札手前で、紙の時刻表を、もう一度、開いた。
『特急 おおぞら 3号、6時52分発、釧路行き』。
札幌(06:52) → 新札幌(06:59) → 南千歳(07:23) → 追分(07:46) → トマム(09:08) → 新得(09:45) → 帯広(10:42) → 池田(11:02) → 浦幌(11:33) → 白糠(12:07) → 釧路(12:30)。
所要、4時間38分。
川口は、3秒、その時刻表を、見つめた。
これを、何度も、暗記している。家にいる時、布団の中で、暗唱したこともある。
ただ、現地で、紙の時刻表 を開いて、確認する、この瞬間が、好きだった。
06:48 — 6番線、入線
『おおぞら 3号』は、定刻通り、入線してきた。
キハ261系1000番台。ステンレス車体に、コーポレートカラーの紫帯。
5両編成。1号車がグリーン車、2〜5号車が普通車。川口の指定席は、3号車12番A席、進行方向左側、海側だ。
川口は、入線したばかりの車両を、3秒、見つめた。
そして、ホームの端に行って、先頭車両を、スマホで撮った。
Instagram には、上げない。
ただ、撮った、というだけの記録。
これも、誰にも、見せない。
06:52 — 発車
『おおぞら 3号』が、静かに、動き出した。
川口は、3号車12番A席に、深く、座った。
窓の外、札幌の街が、ゆっくり、流れ始めた。
朝7時前の、新札幌の街。通勤前の、静かな空気。
川口は、リュックから、ICレコーダー を取り出した。
そして、録音開始 ボタンを押した。
キハ261系の、ディーゼルエンジンの低い唸り。
カーブで、車輪が、わずかに、軋む音。
これを、ずっと、録っていく。家に帰って、聞き直す。
誰にも、説明したことは、ない。
09:08 — トマム、雲海の入口

『おおぞら 3号』は、石勝線 のトマム駅に、停車した。
夏の北海道。山の上の方には、まだ、雪は、残っていない。
川口は、紙の時刻表 を、開いた。
「トマム、09:08着、09:09発」。
1分停車。観光客の乗降は、ほぼ、なし。
川口は、3秒、駅名標 を見た。
そして、9時8分00秒、ぴったりに、停車したことを、iPhone の GPS で確認した。
誤差、0秒。
川口は、口の中で、つぶやいた。
「JR北海道、完璧」
誰にも聞こえない、小さな声で。
そして、3秒、車窓を見つめた。
遠くに、雲海の入口 が、見えていた。
09:30 — 狩勝峠、勾配最適化
『おおぞら 3号』は、新得 を出ると、すぐに、狩勝峠 の長い下り勾配 に入る。
川口の好きな区間。
キハ261系は、振り子式 ではないが、空気ばね 制御で、急カーブを、滑らかに、抜けていく。
連続する S字カーブ。
遠心力。
足元から、わずかな、傾き。
川口は、3秒、目を閉じた。
そして、心の中で、勾配を、計算した。
- 新得駅から、新狩勝信号場まで、約20km
- 標高差、約430m → 標高差/距離 = 21.5‰(パーミル)
- これは、JR北海道の路線で、最急勾配区間のひとつ
- かつての 狩勝峠旧線(1966年廃止)は、25‰ で、もっと急だった
- 新線(現行)は、トンネルを長く取って、勾配を緩和した
- 勾配と所要時間と土木コストの 三項最適化 の結果が、いまの線形
川口は、3秒、目を開けた。
そして、もう一度、車窓を、見た。
1966年の廃線跡 が、谷の向こうに、わずかに、見える、はずだ。
実際には、もう、木に覆われて、見えない。
でも、川口の頭の中には、見えていた。
これも、誰にも、説明していない。説明したら、引かれる、と分かっている。
10:42 — 帯広駅、5分停車
帯広駅は、5分停車。
多くの乗客が、ホームに降りて、伸びをした。
川口も、降りた。
ホームの売店で、「ぶた丼弁当」 を、買った。
880円。
これも、3ヶ月続いている “帯広駅では必ずぶた丼” の習慣。
SNS には、上げない。
3号車12番A席に、戻った。
包みを開けて、ぶた丼を、食べた。
窓の外、十勝平野 が、広がっていた。
遠くに、日高山脈 の影が、見えた。
ぶた丼は、いつも通り、美味しかった。
「これですね」
誰にも聞こえない、小さな声で。
12:30 — 釧路駅、到着
『おおぞら 3号』は、12時30分00秒、ぴったりに、釧路駅 1番線に、到着した。
誤差、0秒。
川口は、ホームに、降り立った。
釧路の空気は、東京 と、明らかに、違う。
湿度が、ある。湿原の匂い、と言えばいいか。
川口は、駅名標 を、3秒、見上げた。
「くしろ KUSHIRO」
「釧路駅、4時間38分」
口の中で、もう一度、つぶやいた。
達成感、というのとは、少し、違う。
これを成すために、4時間38分、ただ座って、車窓を見ていられた、という静かな満足。
これが、川口にとっての、唯一の、Slack を開かない時間だった。
14:45 — 釧路湿原、ノロッコ号
釧路駅で、「くしろ湿原ノロッコ号」 に乗り換えた。
こちらは、観光列車。客車3両、ディーゼル機関車牽引。
釧網本線 を、釧路湿原駅まで、ゆっくり、走る。
所要、約30分。
窓は、開いている。
北海道の風 が、車内に、流れ込んでくる。
川口は、ICレコーダー を、もう一度、回した。
ディーゼル機関車の音、客車のジョイント音、車掌のアナウンス。
窓の外、地平線 まで続く湿原。タンチョウ(と書かれた案内、実物は見えない、季節が違う)。
川口は、3秒、目を閉じた。
「これだけのために、来ている」
誰にも聞こえない、小さな声で。
20:30 — 帰路、『おおぞら 12号』、釧路発

夕食を、釧路駅構内 で、簡単に済ませた。
そして、『おおぞら 12号』20時30分発、札幌行き に乗った。
復路は、3号車14番A席。
同じ進行方向左側、海側。だが、夜なので、外は、ほとんど何も、見えない。
川口は、リュックから、『鉄道ピクトリアル』 を取り出した。
朝、読むつもりだった、未読のままの特集記事。
3ページ読んで、すぐ、置いた。
そして、iPhone を取り出した。
Slack を、開きそうになった。
月曜の業務、月次レビュー、AI 戦略推進室の TODO、御託先輩のレビュー待ち資料。
川口は、3秒、迷った。
そして、Slack を、閉じた。
代わりに、iPhone の GPS ロガー を、もう一度、起動した。
『おおぞら 12号』の、復路の、速度プロファイルを、記録するためだ。
これも、誰にも、見せない。
そして、3秒、目を閉じた。
キハ261系のディーゼルエンジン音が、車内に、低く、響いていた。
川口は、その音に、身体を、預けた。
月曜の朝、東京の会議室
月曜の朝、川口は、東京の会議室に、いた。
赤崎部長 が、3案の戦略レビュー資料を、目の前に置いて、こう言った。
「うーん、川口くん、この案A、いいねぇ。案B もいいねぇ。案C も、ふわっとした方向感としては、いいねぇ」
川口は、3秒、それを聞いた。
そして、ノートパソコンを、開いた。
背景の壁紙は、釧路駅の駅名標 の写真。
誰にも、気づかれていない。
川口は、軽く、口の端を、上げた。
「赤崎部長、その3案ですけれど…」
そして、いつもの “アナリスト” モードに、戻っていった。
でも、ノートパソコンの壁紙だけは、釧路駅 のままだった。
その日も、誰にも、気づかれなかった。
川口は、それで、十分だった。