AI解説の合間に挟む、登場人物のプライベートに踏み込む短編。第2回は 南雲社長(62) が、ある土曜日の朝、世田谷の自宅で Apple Watch のセットアップに挑む45分 の物語。AIは1ミリも出てきません。
09:00

南雲は、世田谷の自宅の和室で、座卓の前に座っていた。
朝の光が、障子越しに、静かに差し込んでいる。
座卓の上には、Apple Watch Ultra 3 の白い箱が、儀式の供物のように置かれていた。
金曜の夜、銀座のアップルストアで買ったのだ。
店員は若かった。20代前半、爽やかな男性、聞き取れない速度で 「セルラーモデルですか、GPS モデルですか」 と聞いてきた。南雲は、3秒、考えて、「上の方」と答えた。店員は微笑んで「Ultra 3 ですね」と言った。南雲はうなずいた。
そして、16万円 がカード決済された。
動機は、先週の 孫の発表会 だった。5歳の孫娘が、別れ際に南雲の腕時計を見上げて、こう言ったのだ。
「ジィジ、Apple Watch、ない…?」
南雲のロレックスが、地球儀から落ちた音がした(気がした)。
09:03
南雲は、Apple Watch の箱を開けた。
中には、本体と、何やら平べったい 白い円盤 と、説明書(英語と日本語と中国語の3言語) が、整然と並んでいた。
説明書を開く。
「iPhone の Apple Watch アプリを開いて、ペアリングを開始してください」
南雲は、3秒、考えた。
「ペアリングとは、なんだ?」
09:07
南雲は、自分の iPhone を取り出した。iPhone 12(息子が3年前に勧めてくれたモデル、まだ使っている)。
ホーム画面に、“Watch” という、見覚えのないアプリがあった。確かに、ある。
南雲は、それを押した。
画面が開いた。
「Apple Watch をペアリング」
「マイウォッチを設定」
「セットアップを再開」
3つのボタンが並んでいた。
南雲は、3秒、考えて、真ん中 を押した。
09:12
画面に、何やら 銀河系のような渦巻き が表示された。
そして指示: 「iPhone のカメラを Apple Watch の渦巻きに合わせてください」
南雲は、3秒、Apple Watch を見た。
Apple Watch は、画面が真っ黒 だった。
「電源が、入っていないな」
南雲は、サイドの突起 を、長押しした。
白いリンゴのマークが出た。
1分待った。
同じ渦巻きが、Apple Watch にも、表示された。
南雲は、iPhone のカメラを、合わせた。
3秒、合わない。
南雲は、老眼鏡 を外して、もう一度、合わせた。
「ピ」
音がした。
iPhone の画面に「ペアリングを開始しました」と出た。
南雲は、深く、長く、息を吐いた。
09:20

iPhone の画面に、次の指示が出た。
「Apple ID でサインインしてください」
南雲は、画面を見た。
「nagumo.shinichiro@example.com」のメールアドレスが、すでに入っていた。
パスワード欄が、空白だった。
南雲は、3秒、考えた。
「パスワード、なんだったか」
南雲は、和室の棚から、パスワード手書きノート(妻が用意した)を取り出した。
「Apple」のページを開く。
3年前の文字で、こう書いてあった。
Apple: Nagumo1957!(息子に変えてもらった)
南雲は、それを入力した。
「パスワードが間違っています」
南雲は、3秒、考えた。
「息子が、また変えたのか」
09:25
南雲は、もう一度、入力した。
「パスワードが間違っています(残り 4回)」
南雲は、もう一度、慎重に、1文字ずつ、入力した。
「2要素認証コードを、別のデバイスで確認してください」
南雲は、3秒、考えた。
「2要素認証コードとは、なんだ?」
iPhone を見回すと、画面の上に、小さく 「6桁のコード」 が表示されているのに気がついた。
南雲は、それを、Apple Watch のセットアップ画面に、入力した。
3秒、待つ。
「セットアップ中…」
南雲は、深く、長く、息を吐いた。
顔から、汗が、一滴、座卓に落ちた。
09:32
南雲は、リビングに歩いて行った。
妻が、ソファで、新聞を読んでいた。
「あのな」
「はい」
「Apple Watch というのを、買ってな」
「はい」
「セットアップが、よく分からなくてな」
「はい」
「少し、見てくれるか」
妻は、新聞を、ゆっくり、畳んだ。
そして、南雲のほうを見て、3秒、無言だった。
そして、こう言った。
「…面倒くさい」
南雲は、3秒、固まった。
「…そうか」
「娘に聞いて」
娘は、嫁いだ。電話で聞くわけにもいかない。
09:40
南雲は、和室に戻った。
Apple Watch のセットアップ画面は、いつの間にか タイムアウト していた。
「もう一度ペアリングを開始しますか?」
南雲は、3秒、画面を見た。
そして、Apple Watch を、座卓の上に、そっと、置いた。
白い円盤を、隣に、そっと、置いた。
箱を、その上に、そっと、被せた。
09:45

南雲は、和室の 桐の引き出し を、開けた。
中には、過去に「これからの時代は」と言って買って、結局使わなかったものたちが、整然と並んでいた。
- 初代 iPad(画面が割れている)
- Amazon Echo(コンセントが抜けている)
- Fitbit(ベルトが切れている)
- ポメラ(マニュアルが入ったまま)
- 電子辞書(乾電池が液漏れしている)
南雲は、Apple Watch の箱を、その中に、そっと、納めた。
引き出しを、ゆっくり、閉じた。
「ふむ」
南雲は、もとのロレックスを、左手首に、付け直した。
サブマリーナー(1985年購入、自動巻き、35年動き続けている)。
カチ、カチ、カチ。
秒針の音が、和室に響いた。
南雲は、深く、長く、息を吐いた。
そして、ぽつりと、つぶやいた。
…これからの時代は、まあ、いつかでいいか
その夜、孫が遊びに来た時、南雲は、こう言った。
「Apple Watch はな、ジィジは、合わなかった」
5歳の孫娘は、3秒、考えて、こう言った。
「ジィジの、ロレックスのほう、好き」
南雲の目から、汗が、一滴、流れた。
(汗である、ということで、自分の中で処理した)